上から目線

「上から目線」反対を取ると「下から目線」ですよね。しかし、「下から目線」というのは少なくとも私は聞いたことがありませんし、仮にそういう表現があっても「上から目線」と比べれば遥かに使用頻度は少ないはず。


「下から目線」に近い態度として想定できるのは「卑屈」とか「おべっか」とかそういうのに近くなるのではないかと思います。それって、「上から目線」と同じくらい、問題のある態度ではないでしょうか。
受け取り手にとっては、勘違いを招きやすいという点ではむしろ「上から目線」より有害な気さえします。


「下から目線」は受け取り手にとっては勘違いはしても不快にはなりがたいので、わざわざ「下から目線」といって糾弾する必要は無く、「下から目線」という表現は日の目を見ないのでしょう。


「上から目線」も「下から目線」も駄目となると、そのどちらでもない第三の目線こそ求められる目線ということになるでしょう。


それは「(ほぼ)対等な目線」となります。


ただし、これは非常に難しいものです。なぜなら目線の高さを決めるのは受け手だからです。


一般的には、おそらく、相手のおかれた立場、境遇などを理解し、慮り、それを態度、発言内容に反映させることで「対等な目線」は実現できるのではないかと考えますし、実際、自分が「上から目線」といわれたときに反省するのはそういう点です。


しかし、その前提条件を満たすこと自体に非常に大きなエネルギーを費やすことになると思います。しかも満たしたからといって本当に上から目線でなくなるかどうかは、それは相手が決めることである以上、全く不明であります。


ではどうすれば良いのか。意識的に「上から目線」に立って書いてみます。


「上から目線」といわれることを過剰に恐れて行動や言動が萎縮し、「下から目線」になってしまうのが一番まずいのかなあと思います。


今までの自分の人生を振り返ってみると、自分にとって考えさせられた、為になった苦言や箴言などはほぼ全てが自分にとっては程度はともあれ「上から目線」で言われたことだと思います。「上から目線」は不快なれどまだ受け手にとってプラスになることはあるかもしれないけど、「下から目線」がプラスになることは無いのではないかと。


結局のところ、何か発言、行動する際には相手の心情、立場などに配慮することに精一杯の努力をすることが大切なのではないかと思います。そこに王道は無く、しかもいくら努力をしても相手に「上から目線」だと判断されればそれまで。また反省、努力のしなおしです。それが一生続くのもまた人生なのかな、と感じます。